1.なぎなたの競技について


演技競技

演技競技は全日本なぎなた連盟の形、又はしかけ・応じわざの中から指定されたものを、二人一組の演技者によって行い、その技の優劣を競い合う競技です。
なぎなたの技の向上をはかるとともに、正しいなぎなたの普及発展を目的として行われる競技です。


試合競技

試合競技は二人の試合者が、定められた部位、面部(正面と左右の側面)小手部(左右)胴部(左右)脛部(左右の外ずねと内ずね)咽喉(のど)を確実に早く打突して勝負を競う競技です。なぎなたを振り上げ、持ちかえ、振り返し、繰り込み繰り出し等の操作をしながら、打突部位を打ったり突いたりします。敏速な動きの中から打突の機会を見いだし、全力をあげて技を競い合います。相手に対して、よい間合いからタイミングよく技を出す事が勝利に結びつきます。試合競技には、個人試合と団体試合の2種類があります。


2.薙刀から「なぎなた」へ

蒙古襲来絵詞 前列左から二番目の徒武者(かちむしゃ)が薙刀を持っています。

「薙刀」と分類される武器の起源は、奈良時代の手鉾が発展したものとする説や、大陸からの輸入武器説など諸説ありますが、平安後期の武士の興隆期に登場した武器のようです。

 「長刀」の字が当てられることもありますが、人馬を薙ぐ刀として「薙刀」と書かれるようになりました。(「薙ぐ」とは“横に大きく払って切る”の意味)。

 

後三年合戦絵巻では、金沢柵の戦いでの薙刀遣い同士の一騎打ちが描かれています。その他、寺院の警護のための僧兵の武器として威力を発揮し、鎌倉時代末から室町時代にかけて徒武者(かちむしゃ)の主武器になっていきます。 

 

しかしながら、応仁の乱頃より戦いの主流が、傭兵である足軽による大編成の部隊による密集戦に変わると、比較的高価な薙刀から、価格や機能的な観点で優位な槍に取って替わられていったそうです。   

 

千代田之大奥 おたち退(おたちのき) 楊洲周延 (ようしゅう ちかのぶ) 1838年 - 1912年

江戸時代には、武家の大薙刀の所持が禁止される中、小薙刀については武家の婦女子のたしなみの武芸としての発展が見られるようになりました。大奥で警護の奥女中が小脇に構えていたり、戊辰戦争の際、会津藩では、薙刀の達人であった中野竹子以下、藩士の女子による娘子軍(じょうしぐん)こと会津婦女薙刀隊が新政府軍に立ち向かい奮戦したのが有名です。

 

明治時代に入ると、廃刀令が発せられ、剣術、武術が廃れ行くのを憂いた直心影流の榊原健吉などが中心となり各地で開催したのが撃剣興行です。その中から出た女流薙刀家の園部秀雄(女性)が圧倒的に強く人気を博したそうです。園部秀雄がその師である佐竹鑑柳斎とその夫人茂雄に師事し修めたのが、のちの直心影流薙刀術です。

 

直心影流薙刀術は、現在まで継承されている日本の伝統的文化遺産である古流薙刀の一流派です。 古流薙刀として現代に息づいているのは、この直心影流薙刀術とともに、天道流があります。両流派とも源流は、東国の武術の故郷、常陸国「鹿島」にあるとしています。

 

戦前は、東京世田谷の道場「修徳館」(薙刀教員養成所)で直心影流薙刀術の指導者が、京都の大日本武徳会の「武道専門学校(武専)」で天道流の指導者が育成されました。その修練を通しての心身の鍛錬と精神修行を目的として、 昭和初期の女学校や師範学校で教科に採用されていたことから、「学校薙刀道」と呼ばれていました。

 

この二大流派である直心影流と天道流の優れたところを集めて太平洋戦後に創出されたのが「新しいなぎなた」で、現在、競技なぎなたとして知られるようになったものです。剣道や居合道、柔道などとともに現代武道として、広く普及に努めるべく「全日本なぎなた連盟」を結成し、今日に至っています。 

 

3.なぎなたを題材にしたマンガ・映画


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